スマホで消える国境、紙で掴もうとする旅
1月、バンコクで開催された Thailand International Travel Fair(TITF)を視察してきました。
私たちICHI mediaは、この数年間、日本政府観光庁(JNTO)のブース運営に関わっています。だからこそ、会場の雰囲気や来場者の動きの変化には、どうしても敏感になります。
今年のTITFは、「盛況だった」「人が戻ってきた」という言葉だけでは、どうも言い表せない空気がありました。確かに来場者はいる。しかし、以前と同じ熱量かと問われると、どこか違う。そんな違和感を抱えたまま、私は会場を歩いていました。
この展示会は「タイ観光を売る場」ではありません。TTAA(タイ旅行代理店協会)が主催し、タイ人が海外へ旅行することを促進するための展示会です。そのため、会場内に「タイ観光ブース」はあまり存在せず、旅行代理店のブースでも、タイ国内旅行の商品はほとんど扱われていません。
この点は、批判でも問題提起でもなく、まずは事実として、とても象徴的だと感じました。
データを見ても、タイ人は決して旅をやめていません。
タイ観光・スポーツ省(MOTS)の最新統計によると、海外旅行者数はコロナ前のピーク時1200万人の水準にはまだ完全には戻っていないものの、回復基調にあり、行き先は多様化しています。日本は依然として高い人気を保っていますが、2024年3月からの「タイ・中国間の相互ビザ免除」により、中国の人気が急拡大、マレーシア、ベトナム、ラオス、香港、台湾などの近隣アジア諸国の安定した需要など、「選択肢が広がっている」ことは明らかです。
一方で、タイ人の国内旅行は、コロナ禍を経て海外旅行よりも早く回復し、すでにパンデミック前の水準を大きく上回り、タイ人国内旅行者数(延べ旅行回数)は、2億回と過去最高水準に達し、消費額も拡大しています。
つまり、「タイ人が旅行をしなくなった」のではなく、むしろ旅はより日常的な行動として生活に組み込まれているように見えます。
海外旅行は、もはや「勇気を出して行くもの」ではありません。
予約、決済、通信、移動。そのすべてがスマートフォン一つで完結する、高度に設計された消費体験になっています。物理的には遠い海外の方が、心理的には近く感じられる。そんな逆転現象が起きているように見えました。
では、TITFの会場で実際に売られていたものは何だったのでしょうか。
それは、国や都市そのものというよりも、海外旅行を「不安なく成立させるための仕組み」でした。
OTA、航空券、通信SIM(AISなど)、マルチカレンシー決済(YouTripやPlanet SCB)、保険、外貨両替(Super Rich)。
会場には、海外旅行に付きまとう摩擦を限りなくゼロに近づけるためのサービスが、所狭しと並んでいました。
「説明される消費者」から「学習する旅行者」へ
象徴的だったのが、TravelokaやTrip comといったOTA企業のブースです。
彼らは商品を声高に売り込むのではなく、来場者のスマートフォンを一緒に操作し、その場でオンライン購入を完了させることに徹していました。航空会社のブースも、従来の有人カウンター販売と、来場者自身がPCを操作し、スタッフが横で支援するセルフ購入型に分かれ始めています。
ここで感じたのは、タイ人旅行者の変化です。
彼らはもはや「説明される消費者」ではありません。テクノロジーを使いこなし、自分に最適な旅を組み立てる「学習する旅行者」、あるいは「プロの旅行者」へと進化しているように見えました。
その一方で、タイ旅行代理店協会(TTAA)主催の展示会でありながら、来場者の多くが航空会社やOTAから直接購入しているという現実もあります。これは良し悪しの話ではなく、旅行代理店という存在の役割が、静かに変わりつつあることを示しているのだと思います。
国ごとに異なる「存在のさせ方」
国別ブースのアプローチの違いも印象的でした。
特に中国は、昨年とはまったく異なるアプローチで、強い存在感を放っていました。韓国は、有名人を招いたステージで大きな人だかりを作り、旅行商品そのものよりも「話題化」や「SNSでの拡散」を狙っているように見えました。多くのタイ人がその様子を撮影し、シェアしていたはずです。
日本ゾーンは、各自治体が丁寧で誠実な情報提供を行っており、日本らしさを感じます。ただその一方で、情報は十分にあるのに、「今すぐそこへ行かなければならない理由」が、なぜか見つからない。そんな、少し贅沢な悩みを感じてしまったのも事実です。
JNTOブースで強く印象に残ったのが、紙のパンフレットです。
デジタル化、ペーパーレスが進む時代にもかかわらず、多くのタイ人が大量の紙資料を持ち帰っていました。
これは単なるデジタル化の遅れなのでしょうか。
私はむしろ、紙は「旅の輪郭を掴むための儀式」なのではないかと感じました。スマホの画面では断片的にしか見えない情報を、紙の地図や冊子は一度に俯瞰させてくれる。タイ人があえて重い紙を持ち帰る事実に、デジタルでは満たされない『旅の解像度』への欲求から、紙の情報が選ばれているのかもしれません。
なぜTITFに「タイ観光ブース」は存在しないのか
前述のとおり、TITFには「タイ国内旅行」の提案は多くありませんが、これは衰退や軽視を意味するものではありません。
そもそもTITFは、TTAA(タイ旅行代理店協会)が主催し、タイ人の海外旅行を促進することを目的とした展示会です。制度上・役割上、タイ国内旅行は対象外であり、この構成自体は一貫しています。
そして、タイ人の国内旅行は年間約2億回と過去最高水準に達しています。タイ人にとって、旅は日常的な行動として、生活の中に深く根付いていると言えるでしょう。
それでもなお、TITFに立つと、海外旅行だけがここまで「最適化された体験」として提示されていることに、強いコントラストを感じてしまいます。
この展示会の風景は、国内観光の是非を問うものではなく、海外旅行がどれほど設計され、摩擦なく提供されるようになったのかを、結果として浮き彫りにしているのかもしれません。
会場を歩きながら、私はいくつかの問いが浮かんできました。
私たちは、便利なテクノロジーによって、旅の「不便さという醍醐味」を失ってはいないか。
なぜ「近くて手軽な国内」よりも、「遠くて設計された海外」の方が、心を自由にするのか。
観光地が提供すべきなのは、情報なのか。それとも「そこに行く自分」を想像させる一枚の絵なのか。
旅がどれだけ楽に、摩擦なく設計されているかが重要なのか。
その問いは、観光だけでなく、これからの産業全体に共通するテーマなのかもしれません。
親日に、甘えてはいけない
タイは世界の中でも屈指の親日国で、日本語を学ぶ人、日本へ旅行をする人、日本企業で働く人も多いと言われています。ただ、だからといって、そこに胡坐をかいて良いわけではないと思っています。
これは、ICHI mediaで取り上げている日本のテック産業にも共通する話です。
技術が優れている、ソフトウェアの品質が高い。それだけで選ばれ続ける時代ではなくなっている。TITFの会場を歩きながら、他の国々はそのことを本当によく考えてきていると感じました。
何かを強く主張するわけでもなく、押し付けるわけでもなく、ただ「選びやすい形」でそこに存在している。その差が、今は静かに、しかし確実に広がっている気がしています。
— Charlie